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源国信

未知広

源 国信(みなもと の くにざね、延久元年(1069年) - 天永2年1月10日1111年2月26日))は、平安時代後期の公卿、勅撰歌人村上源氏で、右大臣源顕房の四男。正二位権中納言。坊城中納言と号す。

経歴

1086年(応徳3年)の堀河天皇即位に際して蔵人に任ぜられたのを皮切りに、1093年(寛治7年)篤子内親王の立后に際して中宮権亮、翌1094年(嘉保元年)には蔵人頭に任ぜられる等、堀河天皇に近臣として仕えた[1]。その後も堀河朝において要職を占め、1098年(承徳2年)参議1102年(康和4年)権中納言1103年(康和5年)正二位

堀河院の歌壇で活躍し、1100年(康和2年)「源宰相中将家和歌合」を主催、また『堀河百首』を編纂した。金葉和歌集初出、以後37首が勅撰和歌集に採られる。

系譜

  • 父:源顕房
  • 母:藤原良任の娘
  • 妻:高階泰仲の娘
    • 男子:源顕国(1083-1121)
    • 男子:源国教(または国範[2])(?-1144)
    • 男子:源雅国
  • 妻:高階経成の娘
    • 男子:源信時(?-1163)
  • 生母不明

脚注

  1. ^ 『今鏡』296段
  2. ^ 『殿暦』康和4年1月23日条
  3. ^尊卑分脈』『系図纂要』による。『今鏡』では源国子とする。
  4. ^ 『台記』天養2年(1145年)12月21日条

参考文献

外部リンク

西行

西行(さいぎょう)、元永元年(1118年) - 文治6年2月16日1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士僧侶歌人。 父は左衛門尉佐藤康清、母は監物源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(西行の娘)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。

崇徳天皇

崇徳天皇(すとくてんのう、元永2年5月28日1119年7月7日) - 長寛2年8月26日1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。を顕仁(あきひと)という。

正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。

藤原忠通

藤原 忠通(ふじわら の ただみち、承徳元年閏1月29日1097年3月15日) - 長寛2年2月19日1164年3月13日))は、平安時代後期の公卿摂政関白太政大臣藤原忠実長男従一位・摂政・関白・太政大臣。法性寺殿と号す。同母姉に高陽院藤原泰子、異母弟に藤原頼長がいる。

寂蓮

寂蓮(じゃくれん、1139年保延5年)? - 1202年8月9日建仁2年7月20日))は、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての歌人僧侶である。俗名は藤原定長。

俊恵

俊恵(しゅんえ、永久元年(1113年) - 建久2年(1191年)頃?)は、平安時代末期の歌人。父は源俊頼。母は橘敦隆の娘。早くに東大寺の僧となり、俊恵法師とも呼ばれる。

藤原清輔

藤原 清輔(ふじわら の きよすけ、長治元年(1104年[1] - 治承元年6月20日1177年7月17日))は、平安時代末期の公家歌人藤原北家魚名流左京大夫藤原顕輔の次男。官位正四位下・太皇太后宮大進。初名は隆長。六条を号す。

藤原敦頼

藤原 敦頼(ふじわら の あつより、寛治4年(1090年) - 寿永元年(1182年)頃?)は、平安時代後期の公家歌人。父は治部少輔藤原清孝。母は長門藤原孝範の娘。若い頃の事績は不明であるが、右馬助などを務めて従五位上に至り、承安2年(1172年)に出家して道因と称した。

藤原顕輔

藤原 顕輔(ふじわら の あきすけ、寛治4年(1090年) - 久寿2年5月7日1155年6月8日))は、平安時代後期の公家歌人修理大夫藤原顕季の三男。官位正三位左京大夫。六条と号す。

源経信

源 経信(みなもと の つねのぶ、長和5年(1016年) - 永長2年閏1月6日1097年2月20日))は、平安時代後期の公家歌人宇多源氏権中納言・源道方の六男。官位正二位大納言。桂大納言と号す。

藤原基俊

藤原 基俊(ふじわら の もととし、康平3年(1060年)- 永治2年1月16日1142年2月13日))は、平安時代後期の公家歌人。父は右大臣藤原俊家

源俊頼

源 俊頼(みなもと の としより、天喜3年(1055年) - 大治4年1月1日1129年1月29日))は、平安時代後期の官人歌人宇多源氏大納言源経信の三男。官位従四位上木工頭

源兼昌

源 兼昌(みなもと の かねまさ、生没年不詳)は、平安時代中期から後期にかけての歌人・官人。宇多源氏で、美濃・源俊輔の子。子に昌快、前斎院尾張がいる。官位従五位下皇后宮少進

皇嘉門院別当

皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう:生没年不詳)は、平安時代末期の女流歌人。父は源俊隆。大蔵卿源師隆の孫にあたる。

祐子内親王家紀伊

祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけ の きい、生没年不詳)は、平安時代院政期の女流歌人で、後朱雀天皇の皇女祐子内親王女房女房三十六歌仙の一人。一宮紀伊、紀伊君とも呼ばれる。従五位上民部大輔春宮亮平経方の娘とも、藤原師長の娘である堀河院御乳母典侍紀伊三位師子と同一人物ともいわれており父親は定かではない。母は「岩垣沼の中将」の作者祐子内親王家小弁(こべん)。紀伊守藤原重経(素意法師)は兄[1]とも夫[2]とも言われている。

源顕房

源 顕房(みなもと の あきふさ、長暦元年(1037年) - 嘉保元年9月5日1094年10月16日))は、平安時代後期の公卿歌人村上源氏右大臣源師房の次男。母は藤原道長の娘藤原尊子。兄は源俊房。妻は源隆俊の娘・隆子。子に賢子雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、顕雅、雅兼などがいる。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。

百人秀歌

『百人秀歌』(ひゃくにんしゅうか)は、藤原定家の撰による歌集である。1951年有吉保によって存在が明らかになった。

歌人

歌人(かじん)とは、和歌短歌)を詠む人物のことをいう。歌詠み(うたよみ)ともいう。

大江匡房

大江 匡房(おおえ の まさふさ、長久2年(1041年) - 天永2年11月5日1111年12月7日))は、平安時代後期の公卿儒学者歌人大学頭・大江成衡の子。官位正二位権中納言。江帥と号す。藤原伊房藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。

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